佐倉強哉の見た明治維新 (5)

明治維新とは、何だったのか?
 政治の機構はいろいろに変わったが、つまるところは天皇が将軍に代わっただけであった。天皇の下には、天皇を絶対の権力者として祭りあげることによって、薩長の成り上がりどもが時を得顔に権力をふるっている。
 こんな新政なら、なにも天皇を表面に押し立てる必要はなかった(1)勝安芳(かつ・やすよし)と対立した主戦論者・小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ)に任せても、これ以上の新政を手際よく開いて行ったはずだ(2)と、この人は考えた。
この人のこういう意見は、晩年においても変わらなかった。
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   小栗忠順 - Wikipedia          勝海舟 - Wikipedia

 この人に言わせると、明治の改革は新政府の意志で成就したものではない。外からと下からの力が盛り上がって、そうならざるを得なかったのである。
確かに封建制度は根本からゆらいで、たとえ薩長の巧妙な打倒運動が功を奏しないでも、徳川幕府は自壊作用を起こしたかも知れない。ただし薩長の討幕運動は、徳川の基礎がゆらぎはじめた機会をとらえたので、徳川に代わって天下をとる野心は凄まじかったが、
自分たちの手で新しい日本を築きあげようとする大方針はなかった(3)
 その証拠には、維新の動乱を貫いた薩長二藩の感情は、まったく封建的なものであった。上州(群馬県)権田村に引き籠もった小栗上野介を虐殺したのも、その一例である(2)。小栗は開国論者であり、海軍の創設者であり、革新政治家として有能な人物であった。新しい日本のためにも必要であったそういう人物を、なぜ殺してしまったのか。いうまでもなく小栗が主戦論をとなえ、薩長と対決しようとしたからである。
こういう小感情こそ、封建制という以外に言いようはない。
 奥羽は聯盟を造って新政府に対抗した。明治政府は、賊藩である奥羽に対して、あくまで冷たかった。文化は一足飛びに北海道に飛んで、奥羽はかえり見られない土地であった(4)。現に戦後も、東北本線は単線であった(5)
日本を一つにして、西欧に負けない国家を造りあげようとする大方針があったとすれば、そんな小感情にいつまでもとらわれているはずはない。つまり彼らには、徳川を倒して天下を握ろうという、封建的な野心しかなかったことになる。もし徳川が自壊作用を起こさなかったら、いずれにしても根本から立て直さなければならなかった時代の必然によって、明治政府のしたくらいのことはしたであろう。明治政府を動かした力と同じものが、徳川を動かしたにちがいないからだ(6)
 明治政府の食をはんで、苦労のない晩年を送ったこの人が、頑としてこういう見解を捨てなかったのは、この人の生きてきた道筋が、どんなに険しかったかを物語るものであろう。
「おれが賊藩の徒でなかったら、大臣ぐらいにはなっていたろう」
と、一杯飲むとこの人は言った。
負け惜しみとはいえない人柄であった。(続)

(1)慶喜大政奉還で、薩長の武力倒幕派大義名分を失った。大義名分がなければ、戦争を起こしても味方は集まらない。王政復 
  古から小御所会議の後でも、公武合体派の勢力が次第に強まって、倒幕派は窮地に追い込まれた。財政的にも立ち行かなくなっ
  ていた。この上は幕府に戦争を仕掛けて錦の御旗をあげ、倒幕派が「官軍」と宣伝するしかない。そのために、大久保利通と岩倉
  具視は16歳の若い天皇の外祖父・中山忠能(ただやす)を抱き込んだのだ。彼らは天皇を「玉(ぎょく)」と呼んで天皇を政治利用す
  る気だったから、尊王論者である訳がなかった。倒幕派は、天皇を政治利用して表面に押し立てなければ勝てなかったのである。

    錦旗は史上三度あがっている。一度目は承久の乱(1221年)。二度目は建武の親政。二度とも、「正統」とされる官軍が敗れた。
  ところが、三度目はちがった。日本近海に外国船が出没する頃、南朝の怨念(神皇正統記 - Wikipedia)を継承した水戸学が支配
  層の流行思潮になっていたからである。
  この辺に目の利く岩倉の悪巧みが当たって、ニセ錦旗は鳥羽伏見の戦いから効果を上げた。
    日和見を決め込んでいた近畿の諸藩が、勝ち馬に乗ったのである。

    しかし、遠くにいれば見える真実もある。『彰義隊戦史』の「檄文」にこんなのがある。
  「今まで270年間天下を治めてきたのは徳川ではないか。その権力を返上しようと言うのに、全部の領地を返せ、全部の官職を返   
  せ(辞官納地)というのは、一体どういう御存念、御措置であるか。それに対していろいろ質問しようと鳥羽伏見に兵を進めたら、今
  度は、これを反逆という。しかも、反逆という形になったのは、薩長側が『玉(ぎょく)を抱く』というか、畏れ多いことながら天皇を人質
  にして官軍と称しているだけのことではないか。だから、このような勢力下の錦の御旗は本物とは言えない。賊手にあれば賊旗で
  ある。従って、簡単に降伏する訳にはまいらん。」

    幕末マンガによく「勤王か?佐幕か!」というセリフがあるが、あれはインチキだ。どちらも、名目上は「勤王」なのである。
    「倒幕か?佐幕か?」と問うべきなのだ。和を貴ぶ日本人の感性からは、当然「公武合体」がいいに決まっている。
     それに、「海外列強から日本を守ろう」と言うのに、「中央政府幕府を倒してしまって、どうやって外国から日本を守るのだ?」
  とならざるを得ない。それでは倒幕派は保たない。
  だから、できもしない「尊皇攘夷」のデマゴーグを放ち、幕府の信用を失墜させようとしたのである。

(2)小栗を処刑した原保太郎は、薩長閥の中で、羽振りの良い生涯を送った。
  「小栗忠順の最期」
   小栗の抜き出ていた炯眼(けいがん)を、後年、大隈重信は次のように語った。
   「小栗は謀殺されるべき運命にあった。なぜなら、明治新政府による日本の近代化構想は、
   そっくり小栗のそれを模倣したものだったからである」
      明治45年夏、東郷平八郎小栗上野介の遺族を自宅に招き「日本海海戦で完全な勝利を得ることができたのは、
      小栗上野介さんが横須賀造船所を作っておいてくれたおかげです」と礼を述べた。

(3)明治新政府には、「幕府を倒してから、どのように国造りをするのか」のビジョンがなかった。
  次の記事の注(1)で述べるように、軍事クーデター政権の明治新政府戊辰戦争に勝つことで精一杯で、全国統治のための官僚 
  組織を用意していなかったのだから当然のことである。、
   明治政府は王政復古の宣言をして摂政・関白・幕府の旧制度を廃し、新たに総裁・議定(ぎじょう)・参与の「三職」が天皇の下に
  置かれることになった。 一方、幕府は西周(にし・あまね)の「議題草案」と言う「徳川版の近代国家構想」を持っていた。
  「三職」と「議題草案」とでは、比べものにならないのである。

    そう言うわけで、西南戦争明治10年までは、国内は乱れに乱れ、百姓一揆は幕末時代より多く、加えて武士の内乱も起こる
   ようになる。あるいは両方の連合ということが起こる。この状況に、新政府は神経過敏になる。
   明治2年から3年の間に岩倉・木戸・大久保の間で取り交わされた手紙(岩倉、木戸、大久保各文書)を読むと、
   「人心が非常に不安で、士農工商いずれも朝廷を批判している」ということが書かれている。朝廷の味方が全然ない。怨嗟の声
   が巷に満ちている。昔の方が良かった、と武家の旧制を慕うということも起こってくる。従って、いったん飢饉にでもなったら・・・。
   王制は幕制に及ばず。薩長は徳川に劣る、ということで、御一新は瓦解してこのままでは外国の軽侮を招く、という彼らの憂慮は
   高まって行った〔小島慶三(1996)「戊辰戦争から西南戦争へ」(中公新書)〕。
   明治新政府の創成期は兵力…←「明治新政府の創成期は兵力も財力も権威も乏しく、いつ瓦解してもおかしくなかった」 
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 学校教育でおなじみのこのグラフを見ると、「江戸時代の幕藩体制は限界に達しており、江戸幕府は倒れるべくして倒れたのだ」との印象を強くする。しかし、慶応3(1867)年で終わっているこのグラフを明治まで延長すれば、別の姿が現れるのではないか?
 私には、「薩長史観」に安住している日本史研究者の怠慢が見えるような気がする。

(4)「白河以北、一山百文」と言われた。
  政友会総裁・原敬は「一山」を号した。大正6(1917)年9月8日、盛岡の報恩寺の「戊辰戦争殉難者五十年祭」で祭文を述べた。
  曰わく「戊辰戦役は政見の異同のみ(「官軍・賊軍」の呼称は薩長の宣伝であって、我らは朝廷に弓を引いたのではない)」と。

      1910年の朝鮮併合で、日本政府は朝鮮の道路、港湾、鉄道、教育、医療などの社会インフラの建設に力を注いだ。
  これは、「東北地方の開発を、朝鮮や台湾の後回しにした」と言われる。

(5)東北本線が全線、電化・複線化したのは、昭和43(1968)年10月のことである。

(6)これは、日本の「国民国家化」と見ることができる。日清・日露を経て日本人は「日本国民」になり、国内の結束が強まった。