復員

 幼い頃に習い覚えた言葉の意味を、長じてある日豁然として悟る…と言う事は、素読教育を受けた世代には、よくある事だったであろう。
 私の場合は、幼い頃聞いた「歌の意味」がこれに当たる。「岸壁の母」はシベリア抑留の息子を待つ母の気持ちを歌ったものであることは分かる。
 しかし、「里の秋」や「かえり船」が何を意味するものかは、分からなかった。「復員」を歌ったものであるのに気づいたのは、ここ二三年のことである。
 「復員」には、先ず「出征」がある。あるサイトから、少し読みやすく変えて紹介しよう。

 《出征》
 映画「指導物語」(昭和16年
記録映画はアングルが悪く、実情は案外分かりにくい。その点、劇映画は好アングルから撮るから画像は鮮明だ。しかし、実情を美化してはいる。
昭和16年の劇映画だから、美化はあっても実情に近い映像と思う。
https://www.youtube.com/watch?v=2pYeonedAVU

(動画)昭和12年尼崎など(カラー)出征風景:http://www.youtube.com/watch?v=P64xrp_7k14&feature=related
昭和14年・東京駅:http://www.youtube.com/watch?v=X-R6HipFNac&feature=related
出征兵士を送る歌:http://www.youtube.com/watch?v=yn2K7IsYfL8&feature=related
 昭和13年12月11日、品川駅頭は人・人・人、旗・旗・旗の洪水である。送る人も送られる方も、口には出さぬが「これが最後の別れになるやも知れぬ」と思うのか、そんな心情がこれ程多数の見送人になったのだろう。父や兄や友人や、近所の人達も来てくれた。最後のお別れである。勿論、我々兵隊に行き先など分かろうはずもない。
「万歳!」「万歳!」「万歳!」、
歓呼と旗の渦の中を汽車は品川を離れた。駅を通過する度に、日の丸の旗が振られる。車内の兵隊はみな興奮している。我々補充兵も、今日ばかりは凛々しく見える。こんなに期待されても…?何とも言えぬ不安が過ぎる。戦場ってどんな所だろう。
 沼津駅に着いた。湯茶の接待である。愛国(国防)婦人会の人達が
「兵隊さん、お茶を」
と、汽車の窓から温かいお茶のサービスをしてくれる。12月の夜である。外は寒風が吹き荒れている。この寒空に、我々のために何時間もホームで待っていたのだろう…。目頭が熱くなる。出発のベルが鳴った。
「万歳!万歳!頑張って下さい」
「元気で行って参ります。有り難うございます」
私は感謝を込めて窓から叫んだ。汽車はだんだん速度を上げてホームを離れて行く。
 と、その時である。妙齢の婦人が汽車と一緒に走りながら、何か紙切れを渡そうとしている。私は窓から身を乗り出してそれを受け取った。何時までも振られる旗。兵隊達も、身を乗り出して何時までも手を振る。
(紙切れには、「戦地に着いたらお便り下さい」と記され、住所と名前が書いてあった。中支に着いた私は早速感謝の手紙を出した。勿論、返事など期待してなかったが、返事の手紙を頂戴した)
 当時は、往く人も、内地の人も、時局に懸命に対処していたのだとつくづく思う。
 
 汽車は24時間かかって下関に着いた。今夜は民家に宿泊との事。「日本の最後の夜を、民家に泊めてやろう」との粋な計らいなのか?それぞれの家で、大変な歓待を受けた。翌日集まった兵隊が、
「俺はボタ餅食った」
「俺はお頭付きだ」
「綺麗なお嬢さんがいた」
と言う話で持ちきりだった。私も大変な御馳走になった。檜の風呂にも入れたし。その家はサラリーマン夫婦で子供はいないそうで、
「これが、私どもが兵隊さんにして上げられる唯一の事です」
としきりに言った。私達は恐縮し、あの軍隊での粗雑さはどこへやら、これが帝国軍人とばかり礼儀正しく振る舞った。指示された訳でもないが、自然にそんな雰囲気になった。
 いよいよ乗船である。


 《復員》私の父母が仲人をやった恩田氏は満鉄電信部で、ソ満国境にいた。後から見れば運良く、敗戦前に北支の山西省太原の鉄道守備隊電信係(軍属)に配属された。暗号をモールス信号で打つのだ。
 「終戦詔勅」は、半分ほど聞き取れた。
「おもうに…今後帝国の受くべき…苦難はもとより…尋常にあらず。なんじ臣民の…衷情も朕よくこれを知る。しかれども朕は…時運のおもむくところ…堪え難きを…堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す…」。
 「日本人はアメリカの奴隷にされるから、帰っても無駄だ。支那に残ろう」が大勢を占める。昭和20年12月、軍人の上官の説得で内地帰還を決める。野戦病院の引き揚げ列車に、看護人として仲間と同乗する。わりとうまく行って、天津市近くの豊台収容所に着く。
 昭和21年4月、天津の塘姑港から復員船で佐世保港に着いた。DDTをぶっかけられて上陸した。証明書をもらって、復員列車に乗った。広島は焼け野原だった。名古屋だったか、駅では「婦人会」の接待を受けた。栃木県佐野市の自宅に着くと父親が飛び出して来て、
「おい、脚があるか確かめろ!」
と怒鳴ったと言う。

 幾度となく聞いた田端義夫の「かえり船」とは、「復員船」のことである。「説明も要らぬ時代の常識」は、一昔となれば意味不明となってしまう→
https://www.youtube.com/watch?v=iKgPJH1b6io

http://www.youtube.com/watch?v=F0Cf5Hpfg1Q
http://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch2.htm
 「里の秋」は、復員兵を待つ家族を歌った。川田たか子が初めて歌った時、水を打ったように静まりかえり、やがて大きな拍手が起きたそうだ。その歌手も、今年鬼籍に入った→http://t-susa.cool.ne.jp/meikyoku/index2.html←左下の「歌入唱歌集」クリック

 蛇足だが、昭和58(1983)年に滋賀県の田舎町にいる時、町長の選挙運動で保守陣営の「白い割烹着を着た婦人の一団」を見て、自虐史観に染まった友人は国防婦人会を思い出したらしく、
「おそろしい…」
と言った。
「あれは、団結のしるしだよ」
私は言った。
 「愛国」か「国防」か、「婦人会」の元・幹部はこう言っていた。
「私どもは、みなそろって、夜遅く出征する兵隊さん達をお見送りいたしました。本当に、良い時代でございました」。
彼女らは、真心込めて「兵隊さん」をねぎらったのであろう。喜ぶ出征兵士の顔、顔が、まざまざと目に浮かんでくるに違いない。
 なるほど、真面目で、気丈かつ健気で、元気な人にとっては、「良い時代」ではなかったのか?
 日本人全員が「地獄の釜の底」に放り込まれ、一蓮托生となったのである。日本人なら共有できる「時代意識」というものがあったのだ。それは、「ベースアップで団結する」程度の事を遙かに越えていたのだ。

 恩田氏宅からの帰途、中央線電車内の、ひ弱そうな、散漫な、自分勝手そうな、危機意識のないバラバラな若い乗客らを見ながら、ふとそう思った。