佐倉強哉の見た明治維新 (1)「田舎武士の目」の紹介にあたって

 小説家・榊山潤(さかきやま・じゅん)(1900ー1980年)の作品に、「田舎武士の目」というものがある。昭和43(1968)年9月1日発行の『日本の歴史』、「明治維新の巻」より再録されたものが、榊山潤(1982)『歴史ーみちのく二本松落城ー』(叢文社)に載って
イメージ 4
いる。この本には、小説『歴史』の他に、「佐倉強哉(さくら・きょうや)の手記」、榊山雪「あとがきにかえて 父、佐倉強哉」も載っている。


 「田舎武士の目」は、戊辰戦争で「賊軍」にされた二本松藩士・佐倉強哉から見た「明治維新」観を伝えている。この内容を全文ご紹介したいが、その前の予備知識として、佐倉強哉の略歴、二本松藩戊辰戦争、その他をお示ししたい。


1)佐倉強哉の略歴
嘉永3(1850)年8月6日 1歳 佐倉強哉、二本松藩士・佐倉源吾右衛門の次男として誕生。
                   幼名、次郎太郎、長じて帯刀(たてわき)、のちに強哉(きょうや)。
元治元(1864)年 14歳 父は天狗騒動鎮撫のため出陣。常陸太田竹河原(茨城県)にて39歳で戦死。
               180石の家禄を相続。
慶応4(1868)年 18歳 戊辰戦争を迎える。剣は一刀流免許皆伝、弓は日置流印西派皆伝、山鹿流
              軍学大坪流馬術、西洋砲術を学んでいた。
       7月26日  笠間藩領・小野新(おのにい)町で西軍に敗退。強哉は九死に一生を得て脱
                               出。
       7月29日  西軍、二本松藩に侵入し、霞ヶ城落城。祖父は竹田門で戦死。強哉は二本松
              に戻ろうとしたが途中が敵地になって進めず、落城に間に合わなかった。
       8月17日  二本松奪還のために米沢藩兵と進んだが、手はずちがいで開戦せずに引き
              あげ。
       9月     改元、明治となる。
       12月    降伏帰順となり、安達郡下川崎村興国寺で謹慎。
明治2(1869)年 19歳 謹慎を解かれ、新藩主・丹羽長裕(ながひろ)の小姓になり、東京の藩邸(芝・
              新網町)に移住。藩主により、「強哉」と改名される。
明治4(1871)年 21歳 廃藩置県二本松藩は二本松県へ。藩主が知事になり、強哉はその秘書に
              なる。わずか12日後に県庁が福島町に移転し、「福島県」となる。
              家族と共に東京へ出て、邏卒(らそつ・巡査)になる。
明治10(1877)年 27歳 西南戦争に警部補で出征、警視庁抜刀隊で参戦。後、退職。
               その後、横浜裁判所の見習い書記に就職。
明治20(1887)年 37歳 判検事登用試験に合格、判事となる。
               その後、奈良・金沢地方裁判所部長。
明治34(1901)年 51歳 甲府地方裁判所検事正
               その後、根室・盛岡の地方裁判所検事正。
明治43(1910)年 60歳 大審院検事を最後に検事を辞職。
               後、岩手県保護院長で弁護士開業。
明治45(1912)年 62歳 福島市で弁護士開業。以後、弁護士、公証人として生活。
昭和14(1939)年11月14日 89歳にて死去。
         なお、廃藩から西南戦争前後にかけての時間的経過は、実弟「佐倉孫三の回想」や  
         『福島県人名事典』と「田舎武士の目」の内容が一致しない。
                          [PDF]佐倉孫三氏関係資料一斑 - 広島大学

2)佐倉強哉の家族関係
佐倉氏は、「遠祖は下総佐倉より出でし由」と伝えられる〔平島郡三郎(1954)『二本松寺院物語』335頁〕 
 父・佐倉源吾右衛門
      ┃           ┏長男・早世? 
      ┣━━━━━━━━┫
      ┃            ┣次男・強哉 
   母・みの         ┃    ┃ 
                                      ┃    ┣━━━━━ 長女・雪
                  ┃    ┃
                  ┃   八重子
                                      ┃
                                      ┗三男・孫三

3)佐倉強哉の実弟・佐倉孫三
イメージ 1佐倉孫三(1861ー1941年)も名を残している。
佐倉孫三は二本松の出身で、号を達山と称した。上京して三島中洲の二松学舎で漢学を学んで塾頭を務めた。その後、千葉県警に入り次いで警視庁・司法省を経て台湾総督初代警察署長となり、帰国後静岡県等各地の警察を歴任した。後、中国福建省武備学堂
教官を務め、帰国して早稲田実業二松学舎の教授として漢文を担当した。
 中国問題評論家の漢学者で、『山岡鉄舟伝』『台風雑記』『閩風雑記』『霞城乃太刀風』『徳川の三舟』『時務新論』『警士之亀鑑』『達山文稿』等の著作が有る。
佐倉孫三の略歴
↑の「大審院検事・佐倉強哉は佐倉孫三の実弟」は、「実兄」の誤りである。

イメージ 2イメージ 3織田信長重臣丹羽長秀(にわ・ながひで)
の子孫である二本松藩(10万石)は、頑強に抵抗し、12歳から14歳の少年たちが敵陣に突入して全滅する二本松少年隊の悲劇を生んだ。
棚倉城奪還戦のあたりから、もともと官軍と気脈を通じながら周囲を同盟軍に囲まれてしぶしぶ従っていた三春藩が、誤射と称して同盟軍を攻撃したりしていたが、同盟軍が棚倉から撤退するや官軍に降伏し、これまでの鬱憤を晴らすように官軍を二本松や会津へ先導したのである。二本松兵は、領地へ戻る暇もなく攻撃を受けることになり、降伏するかで藩論は二分されたが、白石から戻った家老・丹羽大学が強硬に主戦論を唱えて悲劇を生んだ。しかも、藩主一家はこの戦いの最中に藩士たちの願いで米沢に逃亡したのであるから、幕末の殿様たちの精神構造は理解できない。
 明治になって、幕末の藩主・丹羽長国(ながくに)33歳の女婿に米沢から長裕(ながひろ)を迎え、版籍奉還となる。箕輪門が復元され、石垣もよく修築されている〔八幡和郎(2004)「江戸三〇〇藩 最後の藩主」(光文社新書)より〕。
イメージ 6
二本松市県立霞ヶ城公園、霞ヶ城祉箕輪門

県立霞ヶ城公園の城の入り口には、「旧二本松藩戒石銘碑」というものがあり、自然石に碑文が彫られている。

イメージ 7イメージ 8イメージ 9









旧二本松藩戒石銘碑 - Wikipedia                 碑文                  碑文読み下し

「お前たちは人民のおかげで禄(ろく)をはんでいるのだ。だから、天に向かって恥ずかしいようなことは絶対してはならん。人民を決してしいたげてはならん。」という藩主の戒めが刻んである。藩政改革と綱紀粛正を示すもので、これを藩士が守ったというのは、政治がずいぶん立派だったのだろう。徳富蘇峰は『近世日本国民史』で、会津や二本松の政治姿勢を絶賛している。国立国会図書館デジタルコレクション - 近世日本国民史. 〔第72冊〕

5)榊山潤が「田舎武士の目」を書いたいきさつ
イメージ 5 榊山潤 - Wikipedia(1900.11.21-1980.9.9)は横浜市に生まれ、昭和7(1932)年に佐倉強哉の長女・雪と結婚した。佐倉強哉は、榊山潤の義父にあたる。
  二本松十万石の霞ヶ城は落城した。この戦いで佐倉強哉の祖父は竹田門で戦死、強哉も九死に一生を得た。その戦いのことを二つ折りの半紙二枚に書き残したものが、「佐倉強哉の手記」である。
 義父と一杯飲みながらの話のあと、この手記を読んだ榊山は、何時かこれを書こうと考えたようである。昭和12(1937)年に第二次上海事変が起こって日本評論社の特派員として上海に渡って、凄まじい市街戦を目の当たりに見てきた榊山は、この手記を基として「歴史」を書いた。昭和
13年から雑誌新潮に書き始め、14年に砂子屋書房から出版された。
「歴史」が第3回新潮文芸賞を受けたのは、佐倉強哉の百か日が過ぎた
   榊山 潤         昭和15年3月5日であった(主に、榊山雪「あとがきにかえて 父、佐倉強哉」より)。 「歴史」は昭和15年2月に映画化された(日活、内田吐夢監督、小杉勇 - Wikipedia主演)。

 「田舎武士の目」は、榊山潤が昭和13年から『新潮』誌上に「慶応四年」として発表の、小説「歴史」を書く際の「取材ノート」を、戦後になって書き直したものであろう。戦後の昭和43年になって発表されたのは、「佐倉強哉の明治新政府に対する批判」が辛らつだったために、戦前に発表することがためらわれたからではないか。
元・二本松藩士・佐倉強哉の「明治維新」に対する意識や評価が直截に語られていて興味深い。
薩長史観」の見直しに、有力な資料になると思われる。