佐倉強哉の見た明治維新 (2)

「強調文字や改行や図・写真」は私(入力者)が編集したが、
本文はあくまでも榊山潤(1968)「田舎武士の目」である。
ただし、私が加えた「章立て」や「注記」は、青文字で示した。
 
以下、引用はじめ。
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田舎武士の目
                                        榊山 潤
はじめに
 ここにいう田舎武士にはモデルがある。この人(佐倉強哉)二本松藩士であった。
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                        郡山盆地・本宮市から安達太良山を望む          霞ヶ城祉箕輪門二階櫓

 二本松は東北本線の郡山と福島の中間にある。汽車であの辺を通った人は、一名乳首(ちちくび)山
といわれる安達太良(あだたら)の秀峰を、車窓から仰いだに相違ない。その安達太良を背景にして間近に城山が迫り、樹木の間に崩れ残った石崖(いしがけ)がはっきり見える。それが丹羽(にわ)家十万七百石、霞ヶ城祉(かすみがじょうし)である。
 この人の祖父は藩の敬学館で漢学と習字を教え、父は天狗(てんぐ)騒動のとき幕命を受けて出征し、茨城県常陸太田(ひたちおおた)で戦死した。その碑はいまも太田にある。この人は十二で藩主の小姓となり、父の戦死後家督を継ぎ、十八で明治元年の奥羽(おおう)戦争を迎えた。禄高(ろくだか)は百八十石であった。戦後東京に出て邏卒(らそつ・警官)となり、明治十年の西南役には官軍として出征した。平定すると百円の公債一枚で放り出され、横浜裁判所の見習い書記に就職した。のちに検事正となって、退職してからはゆうゆう余生を楽しみ、九十歳の長寿を保って死んだ。これが、この人の生涯の簡単な記録である。
 この人は晩年を福島市に送ったが、私は長篇「歴史」を書くため、しばしば福島を訪れて話を聞いた。正直に言って老人の話は、正確な歴史を調べるためにはあまり役に立たない。当然のことだが、遠い記憶は錯綜(さくそう)混乱して、かえって事実をゆがめるような結果になりがちである。ところがこの人の記憶は正確であった。足も達者で、土湯から会津(あいづ)に抜ける間道の入り口まで、案内してくれたこともある。城を焼かれた敗走の藩士が、あてもなく彷徨(ほうこう)する姿をその作品に取り入れたかったのであるが、この人の案内で私はほぼ的確なイメージを摑(つか)むことができた。
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 福島城から南西に谷の出口に向かって延びる道がある。谷の出口にある薄黒い小さな点が、「土湯温泉」である。二本松城(霞ヶ城)の北西約15Kmにあたる。土湯から谷をつめて東吾妻山の南の峠(旧・土湯峠)を越し、母成峠の北西の谷に出て会津に至る間道があった。この道は会津の物資を阿武隈川の水運を利用して江戸や大坂に送るために、会津藩によって開削された。現在の峠を越えるルートは、昭和7年から昭和13年にかけて、福島県によって吾妻裏磐梯観光道路として建設され、旧道とは少し異なっている。

 奥羽(おうう)の戦さで徹底的に打ち砕かれたのは会津である。それにはそれだけの理由があった。新勢力の代表者である薩長二藩と会津の対立は根本的なもので、会津は彼らを官賊と呼び、とことんまで仇敵の感情を燃やしつづけた。しかし二本松藩には、薩長との間にそれほどの対立はなかった。第一、対立するほど有名な大名でもなかった。
 にもかかわらず、敵対の意欲において会津に劣らなかったのは、一種の正義感からであった。この人は晩年に至っても、明治維新は革命でなく、単に雄藩と徳川幕府の争覇(そうは)であったという見解を崩していなかった。薩長二藩は、巧みに不平不満の貧乏公卿(くげ)を利用して皇室を抱き込み、皇室を表看板にして幕府を倒そうとした。つまり、関ヶ原の怨みを晴らそうというのである。この人は孝明天皇崩御が、正常なものでないことを信じていた(1)。こういう薩長の陰謀に対して、徳川幕府が対決の意志を失ってしまったことを奇怪と考えていた。
(1)毒殺説は三日後には京都から忍(武蔵国忍おし藩・現・埼玉県行田市)まで伝わっている。口コミの情報としては異常に早い。当時、早馬を用いても一週間ぐらいかかったのが三日で届いている。状況判断から、噂の真偽はともかく、、倒幕派ならどんな非常手段もとりかねないという認識が、かなり広い範囲に浸透していたことを物語っている。この張本人は岩倉具視であると言われている〔小島慶三(1996)「戊辰戦争から西南戦争へ」(中公新書)〕。
昭和50(1975)年、孝明天皇の典医(てんい)の曾孫で開業医の伊良子光孝(いらこ・みつたか)が、曾祖父・光順(みつおさ)の日記とメモに基づく「毒殺説」を発表した。光順の日記とメモは、伊良子家では孝明天皇崩御以来、門外不出だった。明治政府の「正当性」を疑わしめる言説を発表すれば、戦前の日本では生きて行けなかっただろう。
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奥羽越列藩同盟 - Wikipedia       

 当時奥州の諸藩には、こういう思想が瀰漫(びまん)していたにちがいない。勝安房薩長のスパイであり、もろくもそのワナに落ちて腰くだけになった十五代将軍慶喜は、卑怯者の代表者であった。腰抜け将軍に代わって、薩長とその後にしたがう小野心家どもにひと泡吹かせてやろうというのが、奥羽諸藩の偽りのない心情であったろう。

 それはいいとして、たった一つの錯誤は、相手の兵力や優秀な武器を見くびったことである。官軍の参謀・世羅修蔵(せら・しゅうぞう)を福島市で殺して一致結束した足なみが、早くも乱れたのはそのためであろう。会津を別とすれば、もっともよく戦ったのは二本松で、仙台や米沢はいつの間にか日和見(ひよりみ)的態度をとるようになった。(続)