佐倉強哉の見た明治維新 (3)

二本松藩の戦いと転戦
 官軍が二本松を攻めた時は、藩兵は白河口その他の援軍に出て、城はほとんどからであった。そのために少年隊(1)が組織され、老人隊が組織された。少年隊は十二から十七までの少年五十一人が集まり、悲壮な防戦をして、会津白虎隊の先駆をなした。老人隊の中には、敬学館の漢学指南であったこの人の祖父も加わり、力つきて戦死した。
イメージ 1この人はその時、三春(みはる)藩の応援のため、小野新(おのにい)町の守備についていた。ところが三春が官軍に通じ、寝返りを打って、味方である二本松藩の守備陣地を急襲した。ふいを突かれて藩兵のあらかたは戦死し、わずかに生き残った者はばらばらになって逃げた。この人もその一人であった。三春の兵に追われ、正面から寄せて来る官軍に道をはばまれながら、灌木の間、谷底、竹林などに身を忍ばせて、辛くも危地を脱した。


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日付は、戦いのあった日。小野新町三春藩領の南東・笠間藩領。                    小野新町の戦い
中央の地図の「新町」が、小野新町にあたる。                       https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/?ctgy=10

 三春藩はその前から、とかく風評があった。三春はその風評をうち消すのに躍起になっていたが、躍起にうち消す一方、ひそかに寝返りの画策をめぐらしていた。その首謀者は河野広中(こうの・ひろなか)であった。この人は当時を追懐して、嘲るように言った。
三春藩は官軍の食糧などをまかなうため、商人から莫大な借金をした。この借金は後まで残って、ずいぶん苦労したらしい。だから、城を焼かれた二本松より、降参して城を焼かれなかった三春の方が、得(とく)をしたとはいえない。ただ一人名をなしたのは河野広中 - Wikipediaであった」
 いまはどうか知らないが、大戦(第二次世界大戦)までは、二本松の人は三春の人との縁組みを避けた。三春の者は嘘つきで、信用できないという言葉を、私が二本松に疎開していたころにもよく聞いた。会津の人ならすぐ信用するが、三春の人は信用しないのだ。その当時の怨みが、そんな風に長く尾を引き、消えずにいるということも、辺鄙(へんぴ)な土地に住む人間感情の微妙な点であろう。確かに二本松は、三春の裏切りによって、ひどい目に遭った。この形勢を察して藩主と藩士の家族は米沢に逃れたが、手うすな城は半日とは持ちこたえられなかった。官軍の道案内者は三春軍であった。この人は城と藩主の安否を気遣い、一刻も早く二本松に戻ろうとあせったが、途中が敵地のようになって道ははかどらず、二本松に近づいた時はすでに城は落ちていた。山中に避難した百姓から郭内(かくない・城内)も焼かれ、城下町は官兵が充満していると聞いた。この人は敗残の兵を集め、会津、仙台の兵を誘って二本松奪回を計ったが、失敗に終わった。さらに虚を狙って山中を彷徨したというが、あたかも残暑のきびしい九月の半ば、昼は暑いが夜になると山気は冷える。楽ではない彷徨であったろう。その時の話がある。
薩摩兵のひえもんとり(2)
 小ぜりあいをやっては逃れ、再びそこへ行って見ると、戦死した味方の者が腹を裂かれている。薩摩の兵が生(いき)ギモをとって食うということが、間もなく分かった。憤慨したのは会津の兵である。いまにかたきをとってやると意気込んでいた。
 ある日また山中での小ぜり合いに負け、ばらばらになって逃れた。この人は一人になり、翌日まる一日、何も食わずにさまよい歩いた。会津か仙台の兵にめぐり会えば、にぎり飯を分けてもらうこともできたが、逢えなかった。山中に避難していた百姓も引き揚げてしまったので、食い物を無心するところがない。湧き出る清水を飲んでは、辛くも餓えをしのいだ。間もなく日暮れになろうとするころ、炭焼き小屋の前に出ると、板戸に紙が張りつけてあった。
「この中に官賊の生ギモあり、後から来たるの士、遠慮なく味わわれよ」
会津の兵に相違なかった。空腹の知覚さえ痺(しび)れて、ふらふらと目がまわるような状態であった。生ギモがあるなら、他にも食い物があるかも知れない。誘い込まれるように中に入った。小屋と言っても地面を囲っただけである。土間の真ん中に火を燃やした跡があり、串刺しにしたものがおいてある。官兵は四、五人がひとかたまりになって、警戒のために山道を歩いている。それと遭遇した会藩の者が彼らを討って、肝臓をえぐり出し、焼いて食ったのであろう。つまり、かたきをとったのである。にぎり飯でもおいてあるかと思ったが、それ以外には何もないので、この人はひと串とって、口に入れた。妙な臭いがしたので、ろくに噛まずに呑み込んだ。
「人間の肝臓とは、変な味のものだ。あの味は今でも忘れられない。一つにはかたき討ちのつもり、一つには精分がつくと思って呑み込んだが、気持ちが悪くなって、間もなく吐いた」
 この人はその話につけ加えた。さすがにもう、敵の首を切りとるという戦場の蛮風はなくなっていたが、明治元年の国内戦ではまだ、そんな事実もあった(続)。

(1)水野好之(大正6年)「二本松戊辰少年隊記」(私家版)

(2)「ひえもんとり」とは、薩摩弁で「生臭い物を取る」の意味。薩摩隼人の風習と言われる。
 死刑囚の遺体に数人でかぶりつき、皮膚や肉を噛み千切って、一番早く胆嚢を取り出したものが勝ちとなる競技。参加するのは足軽以下のごく軽い身分の者で、競争者は互いを殺傷しないよう予め刃物を脱した状態で事におよび、先を争っては屍に群がり、罪人の亡骸から胆嚢などを取り出すことになる。競争者は刃物を所持していないため頼れる利器は己の歯のみ。文字通り死体にかぶりつき、そのまま口中にふくんだり、傷口から手を突っ込んだりして取り出すことになる。
 なぜ、そんな事をしたのか?薩摩武士としての胆力を練るための訓練の一環。

作家・里見弴は、父が実見した「ひえもんとり」の光景を多少の創作を加えて書いている。

平田弘史の漫画「薩摩義士伝」の第一話の前編と後編に、「ひえもんとり」を題材にした作品がある。事実性については不明。


『平太の戊辰戦争 ─少年兵が見た会津藩の落日─』
 薩摩、長州を筆頭とする官軍兵の略奪、窃盗、強奪、強姦、放火、死体損壊、侮辱、それに人肉嗜食(Cannibalism)が平気で行なわれていたことが記載されている。人肉嗜食が兵糧の欠乏ではなく、敵に対する憎悪と侮蔑、それに士気鼓舞が目的であったという記載はすさまじい。
 魚沼の小出島守備の隊長・町野源之助は17歳の弟・久吉を同行していた。久吉は槍の名手で18人を倒したが、官軍の一斉射撃で死んだ。兄は弟の遺体を取り戻そうとしたが果たせなかった。
 久吉の首は切り取られ、7日間晒され、四肢は兵隊が争って肉をそぎ取って食いちぎり、骨、皮は四散された(『町野久吉戦死の真相』小出町歴史資料集)。
 安田町(現・阿賀野市)で腕を切り落とされた会津兵を人夫が引き倒し、薩長兵が肉を切り取り、人夫に食わせ、残りは地面にふり撒いた。
 「これは何といふものにやと尋ねければ、会津烏と言ふものなりと仰せありしとや」と言い、あぶらが強かったとまで書いてある(『佐藤長太郎乱語聞書集』安田町史に詳しい)。