佐倉強哉の見た明治維新 (4)

運命の岐路
 この人は会津に行って、最後まで戦おうと決心した。もしそのまま会津に行っていたら、この人の生涯はそれで終わっていたはずだった。十二の時から小姓として仕えた藩主に、この世の暇乞(いとまご)いをするつもりで一応米沢へ行ったのが、生き残るきっかけとなった。仙台と米沢では、降順の運動を始めていた。卑怯者と憤ったが、厄介になっている藩主の慰撫(いぶ)もあって、この人も結局は卑怯者の末席に座ることになった。会津はただ一人突き放されて、袋叩きに遭った感じだった。
降伏人の日々
 降伏を許されると、家族の者は郭内に戻ることができたが、戦った藩士は二本松領内、下川崎の寺に、謹慎を命じられた。この謹慎は半年続いた。季節は冬に入ったが、着ているのは残暑の頃に戦ったままのものであった。敗藩、焦土と化した身分に、差し入れのあるはずもなく、配給の玄米五合を袋に入れ、毎日気長に棒でたたいた。この作業は糠(ぬか)をとるために必要だったが、寒さをしのぐためにも必要であった。
降伏人赦免後
 許されて二本松に戻ると、家族は焼け跡にバラックを建てて、どうやら暮らしていた。明けて十九歳の敗戦藩士にも、妻はあった。それに祖母、母、妹や弟の大家族が、どうやら食いつないでいたのも、心やすい町人の援助によるものであった。郭内の宅地は四百八十坪、春になってから家族はこの宅地を畑にして、馬鈴薯(ジャガイモ)を植え付けた。しかしそんなことでどうなるわけもない。この人は繭(まゆ)買いになり、秤(はかり)をぶら下げて山村を歩いた。
イメージ 1イメージ 2「猫がいたら猫を、娘がいたら娘を褒(ほ)めて、しかるのち商談にお入りなさい」と商人に教わって行ったのだが、その呼吸が巧(うま)くいかなかった。武士の体面はすでに地に落ちていたが、それを自分で捨て去ることは容易でない。
この人は会津に行って死ななかったことを悔いた。死ぬべき時に死ななければ、゛死にまさる恥あり゛という言葉を身にしみて感じた。しかし生きている以上、食わなければならない。食うためには屈辱を忍ぶほかはなかった。
 二本松県ができて、藩主が知事になった。この人はその秘書になったが、もらえるはずの月給はもらえず、閑を見ては繭買いに出かけた。二本松県が廃止された時に、志を立てて家族とともに東京へ出た。その旅費は四百八十坪の宅地を売って造った。


邏卒生活
 これから、月給七円五十銭の邏卒(らそつ・警官)生活がはじまる。七円五十銭のうちの四円をさいて、弟(佐倉孫三)二松学舎の寮に入れた残りの月給では食えないので、母親と奥さんが仕立物の内職をした。七円五十銭の月給から四円を弟の学費にさくとは、当時としては非常識といえたかも知れない。
イメージ 3 私が初めてこの人に会ったとき、この人は福沢諭吉の「西洋事情」の一部と、「学問のすすめ」の第二篇までを、きれいに写し取った古びた半紙判の何冊かを見せてくれた。福沢全集を見ると、「西洋事情」は慶応二年から明治二年にかけて、「学問のすすめ」は明治五年に発売されている。東京に出て邏卒になっていたころ、人に借りて書き写したものだと言ったが、月給の半ば以上を弟の学資にしたのも、これらの書物の影響に相違ない。
この人の福沢諭吉に対する傾倒はひと方でなかった(1)。生きるために屈辱を忍び、敵の最下層の食をはんだ日々が、楽しかろう  
        明治4年東京府邏卒3000名を置いた。        もない。邏卒の多くは、無能な薩摩の下    
           これが、日本の警官の始まりとなった。                 級武士だった。
無能な人間ほど威張りたがるもので、今やわが藩の天下だという意識を、片時もしまっておかない。この人は邏卒の間でも、とるに足りない賊藩の徒であった。
 こういう生活環境に、光を与えてくれたのが、「西洋事情」や「学問のすすめ」であった。新しい日本のあり方を、この人はこれらの書物で初めて悟った。そこから希望が生まれた。当時の日本の現実には、そういう新しいあり方は見られなかった。(続)

(1)福沢諭吉に傾倒する人々。
  ずいぶん昔に読んだが、布施辰治 - Wikipedia福沢諭吉に傾倒していた。

 福沢の論評は、没落士族や田舎の意欲ある若者に希望を与えた。
福沢の人気は、明治政府に対して距離を取っていたことに無縁ではない。
                福沢諭吉と明治維新 - 知の快楽 - 東京を描く